将軍昼食企画*第1次研究成果(7)

逢坂さんのご報告です。

やはり、ご飯にお砂糖の組みあわせをどう解釈するかが、今後皆で考えなければならない課題になりそうですね。

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御飯
二度食の時代には、強飯が普通であったが、三度食になると姫飯(現在のご飯と同じ)が多くなる。江戸時代には、三度食が上下階級の別なしに定着していた。

炊き方
①湯立て法
釜の中の水を沸騰させ、その中に米を入れて炊く。
②土器鍋に適している湯取り法
白米を前夜より水に浸しておく。釜に水を多めに入れ、沸騰してから米を入れる。半ば以上熟してからザルにあげて、粘り気がなくなるまで水で流し、蒸し籠にかけて蒸す。また釜に戻し、炭火で蒸す。

現代の典型的な炊飯は炊き干し法になっているが、これは金属の釜が普及してからの方法である。

熊谷真菜+日本ふりかけ懇話会『ふりかけ―日本の食と思想』学陽書房
永山久夫『たべもの江戸史』河出書房新社

砂糖
日本へ初めて砂糖が渡来したのは奈良朝の時代とされる。
砂糖が食物として、大量に輸入されるようになったのは、中世の末期からであり、それが余り経済的に恵まれていない一般庶民の食生活にまでもとり入れられるようになったのは、近世に入っての後である。
砂糖の輸入量は1715年をピークに、下降していった。ピーク時には年の輸入量が七百万斤ほどであったが、1804年には一二八万斤と、五分の一程度に減少している。これには、吉宗の和糖生産の推進が大きく関わっている。
江戸時代に入り、砂糖の輸入量は増加していったが、輸入品にみあう輸出品を生産することができなかったため、幕藩為政者は国富の損耗を危ぶんだ。
当時の外国商人たちがわが国に求めたものは製品ではなく、金銀銅であった。結果わが国の貨幣および金銀銅を用いた製品の海外流出がはげしく、江戸中期になると金銀銅が底をついてしまい、俵物(いりこ、干鮑あわび、鱶鰭)で代替したほどであった。
そこで吉宗は、関東から九州にいたる各藩にさとうきび栽培、砂糖生産を奨励した。
やがて讃岐では独自の方法で、現在の和三盆(「三盆白」と呼ばれていた。)を作ることに成功した。1858年には国産糖合計二二二九万斤にのぼった。

永山久夫『たべもの江戸史』河出書房新社
伊藤汎監修『砂糖の文化誌 ―日本人と砂糖』 八坂書房
芳賀 登・石川寛子『全集 日本の食文化 第五巻 油脂・調味料・香辛料』雄山閣出版株式会社

胡椒

コショウが大量に日本に入ったのは、十七世紀の初頭である。江戸のはじめころには一般庶民にもコショウの名が知られていた。たとえば、1713年初演の歌舞伎十八番、「助六」などにも登場している。(『胡椒の悔やみ』)

永山久夫『たべもの江戸史』河出書房新社

紙包み(ふりかけ?)

「紙包み」がふりかけだという記述は見つけられなかった。
ただ、江戸時代にもふりかけのようなものは存在していたようだ。

ふりかけの一種と考えられるものとして、田麩、佃煮があげられる。

田夫・田麩・・・同じ名称であるが、田夫は江戸初期からのもの、田麩は中期以後のもので田夫の変化したものである。田夫は田作り(ごまめ)、黒豆、鰹節、きくらげ、ごぼう、昆布などいろいろの材料を小さく切って、醤油、酒などの調味料で汁気のなくなるまで似たもの。

佃煮・・・小エビ、小魚、貝類を醤油、みりんなどで煮詰めた保存食で、江戸時代初期に大阪の佃村の漁民たちが自家用の惣菜として作っていたもの。彼らが大阪の陣のときに徳川家康を助けた縁で、優遇されて江戸の隅田川河口佃島に移住、佃煮と命名されて江戸名物として、全国に広がったというものだ。

熊谷真菜+日本ふりかけ懇話会『ふりかけ―日本の食と思想』学陽書房
松下幸子『図説江戸料理事典』柏書房

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