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将軍昼食企画*第1次研究成果(9)
篠田さんよりご報告が届きました。お忙しい中ありがとうございます。
ご担当は調味料(塩と醤油)です。
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塩―岩塩など固形物からと海水・鹹湖(=塩湖 0.5g/l以上の塩分の湖 ex.蔵王御釜、死海)など水からとれるものの二種類がある
日本の塩の歴史
古代 海藻から 日本独特の製法、藻塩焼き、土器製塩と呼ばれる
6世紀には歌集にも、須磨や塩釜の浦での歌に詠まれる
ホシダワラ、カジメなどの海藻を浜辺に積み、何回も海水をかけて塩分を高め、焼いて水に溶かし、上澄みを釜で煮詰める
8世紀 塩田へ 揚浜式塩田
海岸の砂州を平らにして底に粘土をしき、上に砂をまく。人力で海水をくみ上げ、塩田に散布すると太陽の熱で水分が蒸発、砂に塩分が残る。その砂を集めて「沼井」という浸出装置に入れ濃厚な塩水をとる。
寛永期 入浜式
(1624-4) 海の平均潮位の所に堤防で囲んだ塩田を作り、干満を利用。毛細管現象で下層から塩分が上昇し、それに海水を加え滴下して濃い塩水を石釜で焚いて塩をとる。
瀬戸内中心に行われ、江戸期の諸藩の財源として重要視された。
元禄(1688-1704)前後から沿岸諸藩は塩業の保護育成、田の開発に力を注ぐ。ex.赤穂浜(50%は江戸へ)、坂出浜、波子浜
近年 流下式
S35 イオン交換膜法開始、S45からすべてこの方法に
醤油 醤。中国から仏教とともに6から7世紀に伝来。
醤―・穀醤(こくしょう) 米、麦、豆を塩を用いて発酵塩蔵
・宍醤(にくしょう) しおからや鮓
・草醤(そうしょう) 菜や大根、果実、海藻などを塩でつける
そのまま食べたり、塩漬けの浸出液は調味料として使う
穀醤はのちに味噌と醤油に分化する前は溜、澄味噌、垂味噌、薄垂などの味噌の汁が用いられた。
醤油の始まり
説① 室町後半、京都で
天文(1532-54)に紀伊の湯浅で工業的に製造され出す
元禄(1558-69) 野田、
天正(1573-91) 播磨の竜野、小豆島
文化7(1810) 銚子醤油が御膳御用命
説② 室町初、湯浅で始まる
初期の濃口醤油 同量の大豆と煎水麦を蒸して麹菌を生やし、同量の食塩と水を加え一年熟成
江戸初期 2~3年熟成 もろみを搾った一番味の優れたコクがあるもの
オランダ人がヨーロッパに運びベルサイユ宮殿でも使われた
近年 加湿速成品多い。
竜野では薄口醤油が作られる。小麦の炒り方、大豆の蒸煮加減おさえ、塩分を多めにして熟成、甘酒などの糖分を少々加える。上方で使われる。
※弁当について
遠藤元男、谷口歌子『飲食』近藤出版社、S58(戸山図書館210,03,24 日本史小百科16巻)
p162-163に提重、重箱、割籠の『調理早指南』2篇からのイラストあり
参考文献
遠藤元男、谷口歌子『飲食』近藤出版社、1983
西東秋男『日本食文化人物事典―人物で読む日本食文化史―』筑波書房、2005